法華経と四諦の法門 

ドミニク・スカランジェロ
立正佼成会国際アドバイザー

道諦の実践 

先月は苦の原因を知るための真理、すなわち四諦の二番目にあたる「集諦」について考えました。今月は苦を滅するための真理である「道諦」を見ていきたいと思います。通常、道諦は四諦の最後に置かれる真理ですが、三回目の今回、道諦を取り上げる理由は、日常生活での実践的な観点から見れば、不安や苦悩の原因が分かってきたとき(集諦)、次に大切なのはその苦から自己を解放するための手順や実践方法を知ること(道諦)だからです。 

先月は苦の分かりやすい例として、交通渋滞に巻き込まれた私の実体験を紹介し、「物事が自分の思い通りに進まないことから生まれる苦」についてお話ししました。そして「集諦」の実践を通して、私の苦がどのような因果の連鎖によって生じたのかを見つめました。 

苦を離れるため、私にできることは仏さまの教えを実践することですが、苦の因果関係が重層的であるのと同様に、実践の方法もひとつでありません。しかし、その中でまずできるのは、人に対して怒りをぶつけるような行為をやめることです。法華三部経の無量義経には、このことに関する大切な教えが示されています。それは、「瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ」という教えです。感情的になったとき、自分の心に気づくことができれば、怒りの爆発を抑えることができるはずです。また怒りや苛立ちを表に出さずにいることができれば、人との衝突を防ぎ、自分自身や周囲の人に苦しみを与えることもありません。 

しかし長い目で見ると、怒りの感情と向き合わずにただ抑え続けるだけでは、その感情はかえって強まり、いつかもっと激しい爆発を引き起こすかもしれません。つまり、このような自制は効果的で、ときには必要であるものの、あくまで応急処置のようなものです。本当の意味での菩薩の「忍辱」とは言えません。開祖さまも、「歯をくいしばって耐え忍ぶのはまだまだ初心の人であって」と述べておられます(『法華経の新しい解釈』 283頁)。 

法華経の法師品第十には、忍辱には二つの条件が伴うことが説かれています。一つは、すべての人に対して慈悲の心を持つこと。もう一つは、あらゆるものを平等に見る眼を具えることです。もし私が慈悲の心を広げ、人びとを平等の眼で見ることができれば、交通渋滞やそれと同様の不都合な状況に巻き込まれたときも、まわりの人々を敵と見なすのではなく、「この人たちも私と同じように困っているのだ」と、自然と彼らの気持ちに共感できるはずです。 

では、慈悲心と平等心を育てるためには、具体的にどのような修行が必要でしょうか。その一つは、法華三部経の結経である仏説観普賢菩薩行法経(懺悔経)に「一切の人を視ること猶お仏の想の如くし、諸の衆生に於て父母の想の如くせよ」と説かれているように、すべての人をまるで彼らが仏であるかのように見、生きとし生けるものを自身の父母であるかのように見ることです。また、日々の読経供養の最後に唱える回向の終わりに、苦しんでいる知人の名前を読み上げることで幸せを願い、苦しみが終わることを祈るのも慈悲心を育む修行です。さらに、その願いを具体的な行動に移して、人のためになる行ないをすること、つまり一般的に布施行の実践とされている行為もまた、他の人との一体感を育み、慈悲心と平等心を養うことにつながります。 

こうした実践は菩薩道を歩むためのものであり、怒りを静めるための処方として必要なものですが、怒りの排除だけに固執するのは良いことでありません。なぜなら怒りの排除に固執することで、心が怒りに対する反応の連鎖から抜け出せなくなってしまうからです。開祖さまは、次のように注意を促しています。 

「煩悩から離れよう離れようと念じているうちは、心が煩悩という観念にひっかかっているために、どうしても離れきれない。」(『新釈 法華三部経』 第1巻307頁) 

また、自分の中の怒りを「排除すべき敵」のように見ていると、怒りの奥底にある慈悲の存在が見えなくなってしまいます。「地獄界」のなかにすでに「菩薩界」が存在していることに気づけなくなるのです。私の怒りはまさに大人げないものでしたが、そこには自分自身に向けた慈悲心の一面もあり、怒りの奥には子どもの頃に約束の時間を守れなかったことで受けたつらい思いを、もう二度と経験したくないという切実な願いがありました。心の奥深くにそうした願いがあるとき、それに気づき、受け止めることで、怒りの根底に潜む心の傷を癒すことができるのです。 

さらにもう一歩進んでわかったのは、時間を守れなかったことなどを理由に、私を厳しく叱った大人たちの怒り(地獄界)のなかに、慈悲心(菩薩界)の存在があったことに、その時気づくべきだったということです。大人たち自身が苦を抱えていたために、上手な導き方はできなかったものの、彼らも心の中では私の幸せを願ってくれていたのです。仏教の視点から見れば、この気づきが「ゆるす」ということなのです。 

「道諦」を実践するということは、「苦の原因に取り組む様々な修行を体系的に行なう」ことを意味します。日常生活で自らの心の状態を意識できれば、怒りが爆発しそうになった瞬間にそれを抑えることができます。その上で、その場しのぎの対策に留まることなく、慈悲心と平等心を広げ、徐々に怒りを乗り越えていくための修行に取り組むことも必要です。そうすることで、最後には自分の怒りを深く見つめ、怒りのなかに菩薩の願いを見出すことが可能になるのです。それは怒りを、自分を導いてくれるよき友(善知識)――自らの内なる提婆達多――と見なし、受け入れる方法でもあります。このアプローチは、怒りを抑え込んだり、敵として闘ったりする代わりに、怒りに本来具わっている慈悲心(仏性)を引き出すことで、怒りそのものを変容させていく方法なのです。 

次回は、「今・ここの法の実践」という観点から「滅諦」――苦が消滅した安穏の境地――について考察し、このシリーズを締めくくりたいと思います。