法華経と四諦の法門 —集諦の実践
ドミニク・スカランジェロ
立正佼成会国際アドバイザー
前回は、マインドフルネス(「今・ここ」に意識を向けること)とボディフルネス(全身の気づき)を活用し、自分の願いと現実との隔たりに苦しみを感じる瞬間を自覚することで苦諦を実践する方法について考察しました。自らの苦しみを正直に認め、自分が問題を抱えていることを受け止められたなら、私たちはすでに最初の大きなハードルを乗り越えたことになります。しかし、そこで立ち止まるわけにはいきません。仏さまは苦しみを何とかしたいと願う私たちに、原因の探究という次のステップに進むことを教えてくださっています。
仏教では、欲望(貪欲)が苦しみの根本原因であると説明されることもあれば、物事の本当のすがたに対する無知(無明)が苦しみの原因であると説かれることもあります。しかし、この二つは互いに相反するものではありません。「無明」とは、自己に対する誤った捉え方、すなわち心の奥深くに根を張っている自己中心性のことです。無明は単なる考え方ではありません。私たちの世界の見方そのものに深く組み込まれているものです。この自己中心性から、現実を自分の願いどおりにしようとする強い欲望(強いこだわり)が生まれます。さらに私たちは、物事を自分の思いどおりにするために行動し、その結果、自分自身にも周囲の人々にも苦しみを与えてしまうことになるのです。
ここで一つの例として、若かった頃の私の体験をお話ししたいと思います。20代の頃のことですが、ある大切な約束があって車で向かう途中、ひどい交通渋滞に巻き込まれたことがありました。いら立ちが募り、やがて周囲を走る車がすべて、目的地へ向かう私の行く手を阻む障害物であるかのように見えてきました。隣の車に割り込みをされた私は、ついカッとなってクラクションを鳴らし、相手のドライバーに大声を上げてしまいました。すると相手も同じように大声で言い返してきたため、交通渋滞に巻き込まれるというよくある出来事が、まるで地獄界にいるかのような苦しみの時間になってしまいました。

いったいなぜ、私はこのような状況を招いてしまったのでしょうか。もし私が割り込みをしたドライバーに対し、怒りをあらわにして大声を上げたりしなければ、言い争いは起きなかったはずです。したがって、争いの直接の原因は私の行動だったと考えることができます。
しかし、ここでさらに深く掘り下げてみたいと思います。というのは、その時、なぜ私はそのような行動をとったのか、その「なぜ」を本当の意味で理解しなければ、もしかしたらこれからも同じように怒りを爆発させ、同じような結果を招いてしまうかもしれないと思うからです。
この出来事が起きたとき、私はまるで固く巻かれたバネのような状態にあって、内側に溜まった負のエネルギーが、今にも一気に噴き出そうとしていました。では、なぜ私の中にそれほどまでに強い負のエネルギーが溜まっていたのでしょうか。それは私が置かれていた状況、つまり約束の時間に遅れそうになっていたせいでしょうか。多くの人はそう考えるかもしれません。しかし、そのひどい渋滞に巻き込まれたドライバーの中には、同じように大切な約束の場所に向かいながらも、穏やかで落ち着いたままの人も、きっといたはずです。状況や条件だけが主な原因だったとはいえません。そこで、さらに探究する必要があります。
十如是を学んだ際にわかったように、人が特定の行動をとる可能性や傾向には、その人の心の性質が関わっています。では、そのときの私の心は、どのような状態だったのでしょうか。約束の時間に遅れそうな状況を受け入れられず、私の心は怒りに燃えていました。自分の力ではどうにもできない状況に置かれ、自らの無力さに直面していたのです。

そう考えると、原因はカッとなりやすい私の性格にあったといえます。
しかし、もう一層深く掘り下げる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちの心の状態は、過去の経験によって形成されているからです。私たちの心の「如是性」には、過去の行ないが現在まで及ぼしている影響、すなわち過去の経験がもたらした「如是報」が反映されています。「如是報」が、私たちの心の性質を形作っているのです。したがって私の場合は、自分は感情的になりやすい性格なのか、そして、もしそうであるなら、それはなぜなのか振り返ってみる必要があるのです。
子どもの頃の私は遅刻が多く、宿題の提出が遅れたこともたびたびありました。そのため大人から厳しく叱られ、家庭でも学校でも時間を守ることを強く求められました。それは私にとって、トラウマに近いものとなりました。20代の私が交通渋滞で感情的になったのは、一部には幼少期に時間を守れなかったことで味わったあのつらい経験を、二度と繰り返したくないという思いがあったからかもしれません。
そのように願うこと自体は、決して悪いことではありません。それは、自分自身を大切にしようとする自然なやさしさから生まれてくるものです。しかしこの時、私の願いは恐れや怒りという好ましくない感情へと歪んでしまい、その感情は現実を自分の望みどおりにしようとする行動となって表出したのです。
集諦を実践することは、必ずしも容易ではありません。時間をかけて正直に自分の内面を見つめ、心を開いてサンガの仲間と自分の感情や思考を分かち合い、自らの心を客観視することも大切になるでしょう。苦しみを乗り越えるためにはどうすべきか。その実践の道筋を明確に見出すには、問題の核心にまで迫らなければならないのです。 次回もこの例を取り上げ、苦を解決するために、どのように「道諦」を実践していけばよいか、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
サンガの現場レポート

ブラジル教会長 佐々木廣海マリア
わが家には思春期を迎えた息子がいます。先日、私は急いでいたため、家の手伝いを息子に頼みました。「お願いだから今やってほしいんだけど」と声をかけたのですが、そのとき息子はちょうどゲームに夢中になっていました。
すると息子は、「えー、今は抜けられないんだよ!」と不機嫌そうに返事をしました。私もついイライラしてしまい、「ゲームばっかりやって!」と言い返し、口論になってしまいました。
今回の出来事を振り返る中で、私は親子げんかという苦の原因は、息子の態度そのものではなく、「今すぐ手伝ってほしい」「親の言うことを聞いてほしい」という、自分の思い通りにしたい気持ちへの執着にあったのではないかと気づかせていただきました。その執着が、イライラや怒りを生み出していたのです。
実はそのしばらく前、私は息子からお気に入りのズボンを直してほしいと頼まれていたことを忘れ、数日後に息子から「お母さん、ズボンはもうできた?」と聞かれ、「あっ、忘れていた。ごめんなさい」と答えていたことを思い出しました。
私はそのときのことを振り返り、自分は後回しにされたくないと思いながら、息子から頼まれたことは後回しにしていたことに気づかせていただきました。そして、私は息子がすぐに手伝ってくれないことに腹を立てていましたが、息子の態度は自分自身の姿を映し出してくれていたのだと反省することができました。
また、日頃から息子が家事を手伝い、私を支えてくれていたにもかかわらず、そのことを当たり前のように受け止め、感謝の気持ちが足りなかった自分にも気づかせていただきました。
そこで次からは、「手伝いをお願いしたいんだけれど、何時ならできるかな?」と、息子の都合を尋ねながらお願いするようにしました。すると息子もイライラすることなく応じてくれるようになり、私自身も一日中モヤモヤした気持ちを引きずることがなくなりました。
この体験を通して、苦しいことやつらいことがあったとき、その原因を外に求めるのではなく、まず自分の心を見つめることの大切さを学ばせていただきました。まさに、苦しみの原因(集諦)は自分自身の執着であると、息子との関わりを通して身をもって学ばせていただきました。
おかげさまで、わが家は今、以前より穏やかで平和な毎日を送っています。相手を変えようとする前に、まず自分自身の心を調えることの大切さを、いつも忘れずにいたいと思います。
そして、「即是道場」の実践として、目の前に生起する出来事はすべて仏さまから与えられた学びの場であると受け止め、一つひとつの出来事と向き合いながら、自らの仏性を磨いてまいりたいと思います。これからも日々精進してまいります。
ありがとうございました。