三車火宅の譬え
妙法蓮華経 譬喩品第三
あるところに、長者の大きな家がありました。その家には、長者の子どもたちや召使いなど、たくさんの人が住んでいましたが、建物は荒れ果てていました。ある日、突然家が火事になりました。中にいる子どもたちは気づかずに遊んでいます。外にいた長者は、大急ぎで家に戻って大声で注意しますが、遊びに夢中な子どもたちは、その叫び声にも気づきません。

長者は、「こどもたちを何か机のようなものに乗せて外に連れ出そうか」と考えますが、「途中で誰かが落ちてしまってはいけない」と思い直します。火の恐ろしさを説明して状況に気づかせよう、と試みますが、こどもたちは見向きもしません。そこで、長者は最後に、「方便を使って子どもたちを救うしかない」と考えます。子どもたちが好きな羊、鹿、牛の車が外にあることを知らせたのです。

子どもたちは、燃えさかる家から、自らの意志で一つしかない狭い門をくぐって、ようやく出てきました。長者は、子どもたちの無事をたいへん喜びました。こどもたちは、口々に「さっき言っていた羊、鹿、牛の車をください」とせがみます。すると長者は、それよりもっと大きな、もっと素晴らしい大白牛車という車を、みんなに平等にくださったのでした。

解説
このお話の中の、長者は仏さま、子どもたちは私たちの姿です。荒れた家は、私たちの住む世界のあやうさを表しています。そこに火事が起こります。火事とは、人生のあらゆる苦しみのことです。それはいつか突然におそってくるのですが、私たちはそのことを知らずに、自分の欲にとらわれているのです。
仏さまは、私たちを救い出そうと、一心に願われています。逃げ出せる門は狭く、ただ一つしかないのです。そこを抜け出るには、仏さまの願いに私たち自身が気づき、自分の意志で門をくぐるしかないのです。仏さまが、何か机のようなものに乗せて連れ出そうとしても、本人が自らの苦に気づいていなければ、救いの手からこぼれ落ちてしまうかもしれません。そこで、仏さまは、まずは苦しみに気づかせようと力を尽くして伝えますが、私たちは気づかないのです。仏さまの顔を、チラリと見るのですが、心から教えを聞こうとしません。
仏さまは、いよいよ最後の手段として、羊の車や鹿の車、牛の車を私たちに示されます。「自分に合った教えから学んでいけばいいのだよ」と教えられ、私たちは初めて教えに心をひかれるのです。
燃えている家から、自分の意志で走って逃れ出たということは、私たちが自ら修行をした、ということを指します。しかし、まだ自分が救われたことには気づいておらず、自分の望んだ乗り物が欲しいという、現実の願いでいっぱいです。そこで、仏さまに心から願いを伝えたとき、思いがけなく、大白牛車という、最高の悟りを、みなが平等にいただくことができました。自分に合った修行を重ねていけば、だれでも仏の悟りを得ることができるのです。
仏さまは、私たちをかわいいわが子としていつも心配し、苦しみから救おうとしてくださっています。本当に、この世は苦しみに満ちていて、火のついた家のようなものです。仏さまは、そこに自ら飛び込んで、私たちみんなが共に仏になる道を示してくださっているのです。
(中央学術研究所 監修)