長者窮子の譬え

妙法蓮華経 信解品第四

ある裕福な家に生まれた子どもがおりました。その子は幼いときに家から逃げだしたので、長い間、他国で貧しい暮らしをしていました。父の長者は、唯一の子どもを失ってたいへん悲しみ、国中を探しましたが、とうとう見つからず、しかたなくその後、立派な屋敷にたくさんの召使いと共に暮らしていました。息子が五十歳のとき、あちこちを放浪するうちに、ひとりでに自分の故郷に戻ってきました。ある日、そこが父の家とも知らずに、大きな屋敷の前にたたずみました。屋敷の中をのぞくと、驚くほど美しく荘厳で、「こんなところにいては、つかまえられてひどい目にあうかもしれない」と、恐ろしくなり、その場から逃げだしました。

長者は、わが子を忘れたことは一日もありませんでした。屋敷の中から息子を見たとたん、一目で自分の子どもであることがわかったのです。急に走り出した息子を見て驚き、召使いに、その男を連れてくるように伝えました。息子は捕まえられると、恐ろしさのあまり気を失ってしまいました。長者は、息子を無理に連れてくるのは諦め、その後、みすぼらしい姿の二人の召使いを息子のもとに遣わせます。息子は、屋敷の便所掃除の仕事に誘われ、安心して屋敷で働きだしました。長者は、自分も汚い身なりをして一緒に働きながら、息子に近づき、「私はおまえを本当の子どものように思っているよ」と言って、新たな名前をつけてあげました。

それから二十年、汚いところの掃除を続けた息子は、ようやくその家に心安さを感じてきましたが、まだ卑屈な気持ちのままです。その後、長者が病気になり、死期を悟ると、宝の入っている蔵の管理を息子に任せました。息子は、仕事をするうちに、家の財産のすべてに通じてきて、次第におどおどしなくなりました。息子の心を悟った長者は、臨終の間際に、屋敷の中の人をすべて集めて、「実はこの男は本当の息子です。わたしの財産はすべてこの子のものです」と宣言しました。息子は、「こんな財宝を求める気持ちは少しもなかった。ひとりでにすべてが自分のものになった」と、かつて覚えたことのない大きな喜びを感じたのでした。

解説

長者は仏さま、窮子は私たちの姿です。私たちは、仏さまのふところから抜け出して、苦しみの中をさまよい歩いています。しかし、いつしか「ひとりでに」親である仏さまに近づいていくのです。自分で気づかなくとも、私たちにはみな、仏性が具わっているからです。そんな私たちを見たとたん、仏さまはしっかりと、自分の子どもだと気づいてくださいます。いつも私たちのことを想ってくださっているのです。

仏さまは、すぐに私たちを悟りへ導こうとしてくれるのですが、私たち衆生は、「とても自分が近寄れるところではない」と、背を向けてしまいます。そこで仏さまは、私たちが安心するやり方(方便)で、おそばにおいてくださいます。便所掃除の仕事をするということは、自分の煩悩を除く修行を積み重ねた、ということです。

二十年という長い時間、修行を重ねた窮子は、それでもまだ、卑屈な心を抱えています。仏さまに、「自分のこどものようだ、名前をつけてあげよう」とまで言っていただいても、やはり自分と仏さまとの間に一線を引いているのです。修行の末、仏の教えに広く通じるようになり、宝の支配人になるのですが、宝が自分のものだとは思っていません。自分にも宝(=仏性)があることに気づくことができないのです。

教えを行じて、少しずつ自信をつけた私たちに、仏さまは、「仏と衆生は親子です。みんなが仏になれるのです」と教えてくださいます。そうしてようやく、自分は仏と一体であることに気づくことができたのです。

私たちは、すでに『法華経』に出合っています。まわり道をしなくても、すぐに仏さまのふところに飛び込むことができるのです。それにはまず、自分の卑屈な精神をなげうつことです。心をのびのびともち、「自分も仏になれるのだ」「自分はこの宇宙と一体なのだ」と、自分に言ってみましょう。そして、法華経を信じ、行じていくことで、自分に確固たる自信が湧いてきます。苦しみに出合ったときは、窮子と一緒に汚い恰好をして、掃除をしている仏さまを思い出してください。仏さまは、いつも私たちのそばにいてくださっているのですから。

(中央学術研究所 監修)