法華経と四諦の法門
ドミニク・スカランジェロ
立正佼成会国際アドバイザー
滅諦の実践
「即是道場」の最終回となる今回は、「滅諦」について考えます。この連載では、日常生活における実践という視点から四諦を捉えてきましたが、今回のテーマである滅諦は、その実践(道諦)の積み重ねの先にある究極のゴール(結果)にほかなりません。
それではまず、「滅諦」の「滅」とは何を意味するのか見ていきましょう。
「滅」はサンスクリット語の「ニルヴァーナ(涅槃)」の訳です。涅槃という言葉は、仏のように深い悟りを得た人が亡くなることを指し、そこから転じて、東アジアでは死を婉曲的に、あるいは敬意を込めて表す言葉として使われてきました。しかし、今回のテーマである滅諦の「滅」は、人の命が尽きることではなく、人が生きる上でのすべての苦しみが消え、安らぎの境地に至ることを意味します。
開祖さまは「滅」の境地について、次のように説明されています。
「滅諦」というのは、そういう人生苦を消滅した安穏の境地です。精神的な苦しみも、肉体的な苦しみも、経済的な苦しみも、その他一切の苦しみを断ち切り、この世に寂光土を現出した姿です。」(『法華経の新しい解釈』72頁)。
滅諦とは、まさにこのような境地のことを指します。しかし、私たちは仏になるまで、その境地に至ることはできないのでしょうか。私はそうは思いません。私たちは教えを実践することによって、さまざまな状況で「滅」の境地を体験することができ、今この瞬間にも、穏やかで清らかな世界(寂光土)を垣間見ることができるはずです。

前号で交通渋滞に巻き込まれた経験をお話ししましたが、たとえばそうした困難な状況であっても、次のような「滅」の境地を体験することは可能です。
第一に、怒りに駆られそうになったとき、その瞬間に気づいて踏みとどまることができれば、怒りの爆発による苦しみを防ぐことができます。第二に、さらに教えを実践し、心の中に菩薩の慈悲を育んでいけば、より深い「滅」の境地を体験することも可能になります。渋滞で身動きがとれないときでも、周囲の人たちを敵ではなく、自分と同じように苦しんでいる仲間として見られるようになり、その結果、怒りの爆発を未然に防げるだけでなく、湧き上がってくる怒りを慈悲の心によって鎮めることもできるのです。
上述の第一段階の「滅」、つまり怒りの爆発による苦しみをなくすことについては、私はかなりの程度まで体験できてきたように思います。また、他者への共感はまだ十分ではないと感じつつも、怒りを覚えた瞬間に相手の人への慈悲の心も湧き上がり、怒りの火種を鎮めることで第二段階の「滅」を体験できることも多くなりました。「一切の苦しみを断ち切る」にはまだ程遠い段階ですが、以前ならエスカレートしていたかもしれない状況を、穏やかな心と冷静さで乗り越えられることも増えました。こうした変化は、あらゆる束縛を断ち切った結果というよりは、法華経の「化城諭品第七」が説く「幻の城」にたどり着けたことの表われのように思えます。それでも、仏になる道を一歩前進できたことに変わりはありません。
しかし、私にとっての一番の救いは、「自分の怒りや稚拙な行動は、実は、自分自身を苦しみから救いたいという、未熟ながらも切実な慈悲の願いによるものだったことに気づけたことです。この気づきは、私に法華経の「十界互具」の教えを確信させてくれました。怒りに満ちた修羅界の苦しみの中にも、悟りと救われの境地である声聞・菩薩・仏の心は常に存在しています。その心は私の怒りの中にもあり、「自らの怒りと向き合い、認め、癒しなさい」と呼びかけてくれているのです。その呼びかけに応じられた時、悟りの世界はおのずと現れてきます。もっとシンプルに言えば、物事をありのままに見ることさえできれば、私たちはあらゆるものの中に仏性を見いだせるのです。
法華経の「五百弟子受記品第八」には、「佛の無上慧を得て 爾して乃ち為れ眞の滅なりと言う」と説かれています。仏の智慧という「宝処」に至る道は険しく、私にはまだ長い道のりが残されています。しかし、自他の内にある悟りの境地をわずかでも垣間見たとき、それは私にとっての「信解」の体験となります。ほんの一瞬でも仏の智慧を味わうこと(解)で、私たちはみな仏の子であるという仏さまの保証を信じる心(信)が、私の中で確信となって深まっていくのです。
「信解」とは、仏の真の悟りである「滅」の境地に一歩足を踏み入れ、「寂光」のかすかな輝きをとらえる一つの方法なのだと思います。そして、たとえ今も人生のさまざまな問題に苦しんでいたとしても、この「信解」の体験こそが、日々の実践によって得られる最大の功徳ではないかと思うのです。私のような凡夫にとって、仏の智慧を理解することは難しいかもしれません。それでも私は、法華経の「方便品第二」で仏さまが説かれた次の言葉を、深く心に留めておきたいと思います。
是の法は示すべからず
言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は
能く得解することあることなし
諸の菩薩衆の
信力堅固なる者をば除く
(現代語訳:「この法は、これを見よと目の前に示すこともできなければ、ことばで説明しようとしても、いいあらわしようのないものであります。仏以外のものは、はっきりと理解することができますまい。ただし、仏の教えを信ずる力が強くてその志の不動な菩薩たちだけは、理解することも可能でありましょう。」 『新釈法華三部経』 第二巻 226頁)