Living the Lotus

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徳行品第一

庭野日敬 この品は、大荘厳菩薩というお方が、仏さまの完全円満な〈徳〉と、衆生済度の〈行〉を賛歎申し上げる章です。 釈尊のお徳への賛歎 大荘厳菩薩は、現身のお釈迦さまのお顔やおからだの、いわゆる〈仏の三十二相〉の立派さをほめたたえます。それはつまり、色身に表現されている完全な人格への賛歎にほかなりません。そして、それに続いて、次のように申し上げています。 仏さまはこのような妙相を具えたお方ではありますが、実は相にあらわれるとかあらわれないとかということを超越した存在であられ、凡夫の眼では、とうていその本質を見ることはできないのです。 衆生の本質も、仏さまと同じなのですが、相ある身としてのあらわれ方がよくありません。仏さまは無限の徳を具えておいでになり、その徳をお相にあらわしてくださればこそ、大勢の人が歓喜して礼拝し、帰依し、尊敬し、心をこめて恭しく対して奉るようになるのでございます。それというのも、仏さまがどんなに悟られても、これで十分だというお気きもちを起こされず、修行に修行を積まれたからでありまして、その結果、このような、えもいわれぬ美しいお相を成就されたものとぞんじます。このようにして、ほんとうは相のない身であられるのに、相ある身として出現されるところが、わたくしどもにとって、まことにありがたいことでございます。 ここに注目すべき点が二つあります。 第一は、衆生の相も、本質的にはやはりそのとおりであるということです。衆生も本質的には仏さまと同じなのですが、修行が足らず、迷いに満ちているために、現実の身としてのあらわれは、仏さまとは比較にならぬ醜さであり、貧弱さです。本質的に仏さまと同じならば、現象としてのあらわれも仏さまと同一になる可能性はあるわけですから、一面においては絶大な希望をもつことができ、一面においてはおおいに反省しなければならないわけです。 法華三部経は、終始そういう思想につらぬかれているのです。ですから、まずこの〈本質の平等相〉と〈現象としての差別相〉ということをしっかり胸に刻んでおくことが、法華三部経を読むために大切な準備となるのであります。 第二に、「(仏さまが)相ある身として出現されたところが、わたくしどもにとっては、まことにありがたい」ということです。 お釈迦さまがこの世にお出でになり、修行に修行を重ねられた結果、あのような完成された人格の持ち主となられ、仏の境地に達せられたという生きた実例があるのですから、われわれとしてはその真似をしてゆきさえすればよいのであって、お釈迦さまがたいへんご苦労なさってたどられた道程よりはずっと容易に、仏への道をすすむことができるわけです。ここにお釈迦さまのご出世のありがたさがあるのです。 それゆえ、われわれは、心に大歓喜をいだいて、お釈迦さまのおすがたを礼拝し、その教えを受持することによって、法身であられる仏さまのなかへ溶け入っていくことができるわけです。すなわち、正しい本尊観が、この大荘厳菩薩のことばに暗示されているわけであります。 『法華三部経 各品のあらましと要点』, 佼成出版社, 1991, P13–P16

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無量義経

庭野日敬 《無量義経》の内容は、お釈迦さまが《妙法蓮華経》の内容をお説きになる直前に、同じくマガダ国王舎城郊外の霊鷲山でお説きになったものです。その後で、長い三昧に入られ、その三昧を終えられてから、いよいよ《妙法蓮華経》を説きはじめられたのです。 そういうなりゆきから推しても、法華三部経の主軸である《妙法蓮華経》を学ぶ前に、先ずこの《無量義経》を読むのが慎重な態度であることが考えられますが、実際に教義の内容に立ち入ってみても、《無量義経》から入ってこそ《妙法蓮華経》もほんとうによく理解できることを、しみじみ感じさせられます。 無量義とは このお経の題名の〈無量義〉とはどんな意味かといいますと、〈数かぎりない意味をもった教え〉と直訳できます。そして、この《無量義経》の中で、その〈数かぎりない意味をもった教えはただ一つの真理から出でてくるのだ〉ということが説かれてあります。その一つの真理というのは〈無相〉ということですが、それについて詳しくはおっしゃっておられません。それで、どうもはっきり分らないのです。では、どこでそれが解決されるのか。もちろん、次に説かれる《妙法蓮華経》においてなのです。《妙法蓮華経》で、それをあますところなくお説きになられるわけです。そして、その数かぎりない教えは、せんじつめればこの《妙法蓮華経》に説く真理に帰するのだと、ご一代のご説法の中でも最も中心になる教えを、ここで明らかにしていらっしゃるのです。 つまり、《無量義経》の中心である《説法品第二》は、釈尊が大荘厳菩薩の質問に対してお答えになったものですから、よほど修行を積んだ菩薩たちでなければ、心底から理解できないものだったのです。さればこそ、釈尊のみ心の中には、次の説法の順序がちゃんと立てられてあったのです。すなわち、この《無量義経》を説かれてから、いよいよその教えの根本である〈無相〉すなわち〈実相〉ということについて、どんな人にもわかるように、あらゆる角度からお説ときになったのが《妙法蓮華経》にほかなりません。つまり、そこではじめて〈究極の真理〉を一般の人びとのために説き明かされたわけです。そういうわけで、《無量義経》は、それ以前の方便経からいよいよ真実経の《妙法華経》を開き出すものであり、《妙法蓮華経》もこの《無量義経》から入ってこそほんとうによく理解できるという関係から、《妙法蓮華経》の〈開経〉といわれているのです。 『法華三部経 各品のあらましと要点』, 佼成出版社, 1991, P10–P12

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良医の譬え

妙法蓮華経 如来寿量品第十六 あるところに、すぐれた智慧を持った医師がおりました。薬の処方に熟達し、どんな病気も治すほどの名医でした。その医師には、たくさんの子どもがおりました。ある時、父の外出中、子どもたちは誤って毒薬を飲んでしまいました。毒が回り、子どもたちは転げ回って苦しんでいます。そんな時、父が家に帰ってきました。子どもたちは皆、父の姿を見てたいへん喜びました。 子どもたちは父に事情を話し、命を助けてくださいとお願いしました。父はすぐに、色・香り・味の良い薬を粉にして調合し、子どもたちに「この薬を飲めば、今の苦しみが治るばかりでなく、これから先も病気をしなくなるのだよ」と言いました。子どもたちの中で、本心を失っていないものは、早速その薬を飲んで元気になりました。しかし、毒で本心を失っている子どもたちには、その良薬が飲みにくそうに思えて、飲む気になれません。 父は、その様子を見てかわいそうに思い、子どもたちをひとり残らず助けられる方法を考えました。そして、子どもたちに必ず薬を飲むように言い残して再び旅に出ると、旅先から使いを出して、自分が死んだと告げさせました。父の死の報せを聞いて、子どもたちは嘆き悲しみました。そして、頼る人を喪った心細さが胸に迫ったとき、ハッと、父が残してくれた薬の有り難さに気づいたのです。すると、心が転倒して未だ薬を飲まず毒で苦しんでいた子どもたちも薬を飲み、皆すっかり元気になりました。それを知った父は家に帰り、子どもたちの前に元気な姿を見せたのでした。 解説 父である名医は仏さま、子どもたちは私たちの姿です。毒薬とは私たちの持つ煩悩(三毒:貪・瞋・痴)であり、良薬とは仏さまの教え(法華経)です。 久遠実成の本仏である仏さまは不生不滅で、常に私たちのそばにおられるのですが、私たち人間は仏さまの存在に気づかず、目の前のものごとにとらわれ、心を振り回されて苦しんでいます。 そこで仏さまは、すべてのものごとは因と縁によって生じた仮の現れに過ぎないと説き、この教えを聞き、受け入れた人々は執着から離れ、安らかな心境に達することができました。 ところが、いったん救われた人々も、教え導いてくれる仏さまがそばにいなくなると、ついわがままになり、仏の教えからそれた生き方をしてしまいます。そのことを心配された仏さまがお説きになったのが、この譬えなのです。 父の留守中に誤って毒を飲み苦しんでいる子どもたちは、帰宅した父の姿を見て、たいへん喜びます。それは煩悩に振り回されている人々は仏の子であり、仏さまの姿を見ると喜びが湧いてくることを表しています。 仏さまは、苦しんでいる衆生を救うため、さまざまな種類の薬を粉にして調合し、色も香りも味も良く、一人ひとりの症状に応じた飲みやすい良薬を用意してくださいました。そこには「ひとり残らず救いたい」という、仏さまの慈悲があふれています。 すぐに薬を飲んだ子どもたちのように、仏さまの教えを素直に受け入れた人々は即座に救われますが、教えをなかなか受け入れられない人もいます。なぜかといえば、煩悩によって心が転倒しているため、たとえ良薬であっても、与えられた薬が飲みにくい薬にちがいないと思い込んでしまうからです。つまり、好き放題に生きている人は、仏さまの戒めを窮屈に感じたり、人のために尽くす菩薩行を面倒に思ってしまうのです。 そのような人々の前から、仏さまは一時的に身を隠してしまわれます。それは、歴史的に見れば、この世に人間として生まれたお釈迦さまが入滅されたことを意味します。お釈迦さまを喪って悄然とした人々の心には、「なんとかひとり立ちしなければ」という自覚が生まれます。信仰には、自分自身から教えを求め、実践することが何より大切です。そのことに気づかせるために、仏さまはお姿を隠されたのです。  最後に、子どもたちが薬を飲んで本心に立ち返ったとき、亡くなったとばかり思っていた父が姿を現しました。それは、私たちが仏さまの教えを自ら求め、心から信仰すれば、ひとりでに仏さまが見えてくることを意味します。つまり、仏さまが常に私たちのそばにいらっしゃることが、自覚されてくるのです。 (中央学術研究所 監修) ※ 解説は 『法華経の新しい解釈』 と 『新釈法華三部経』(庭野日敬著)を参考にしています。

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髻中(けちゅう)の珠の譬え

妙法蓮華経 安楽行品第十四 あるところに、大きな勢力を持つ優れた大王(転輪聖王)がおりました。大王は、周りの小さな国々を治めて平和にしようとしましたが、小国の王たちは命令に従いませんでした。そこで、大王は、それらの国々に兵士を送り、人々を苦しめる者たちを討伐しました。 戦いで手柄を立てた兵士には、その功績に応じて、大王からご褒美がありました。大王は、兵士の奮闘ぶりを誉め、ある者には家を、またある者には田畑・宅地、村落・都市を与えました。衣服や装身具、あるいは珍しい宝・金・銀・瑠璃や人民などを与えられた者もおりました。しかし、大王は、頭頂のまげの中に結い込めた宝珠だけは、誰にも与えませんでした。 その宝珠は、この世でたったひとつしかない、最上の宝です。それを誰かに与えてしまったら、もらった人も、周りの人も、ただ驚いて、当惑してしまうほど貴重な宝でした。それでも、もし比べもののないほどの大手柄を立てた者がいれば、大王は喜んで、まげの中に秘めた宝珠を、その勇者に与えようとしていたのです。 解説 優れた大王(転輪聖王)とは、仏さまのことであり、小国と戦う兵士たちは、仏の教えを実践しようと努力する私たちの姿です。大王に抵抗する周りの国々とは、人間の煩悩や迷いの心を表しています。 私たちにはたくさんの煩悩がありますが、仏さまは、その一つひとつに対してふさわしい教えを説き、私たちの心が執着から離れるよう導いてくださっています。教えによって、心の魔に打ち勝とうと努力する私たちを、仏さまは、励まし、喜ばせようとしています。奮闘へのご褒美として、私たちは、心が動揺しない境地や、苦しみから離れた境地など、家や村落、衣服、珍しい宝、人民などに譬えられる、さまざまな宝を得ることができるのです。 しかし、仏さまは、この法華経の教えだけは、長い間、説くことはありませんでした。大王のまげの中にある宝珠とは、法華経の教えを表しています。法華経は、すべての人を仏の悟りに導く尊い教えですが、修行の浅い人が聞くと、当惑したり、抵抗感を持ってしまいます。そのため、私たちがこの教えを正しく受けとめられる境地に至るまで、仏さまは最上の教えを、大切に秘めていたのです。 至上の宝である法華経の教えを理解するためには、煩悩を除き、心を清らかにする修行が必要です。おのれの心を磨き、人のためになる良い行ないを積み重ねていくうちに、法華経の真義を深く感じられるようになるのです。 私たちの心が清まっていることを感じとられた仏さまは、いよいよ最高の教えを説かれました。仏さまは、私たちを信頼して、最高の宝をくださったのです。しっかりと信受して、私たち自身が、その真価を発揮できるようになっていきましょう。 (中央学術研究所 監修) ※ 解説は 『法華経の新しい解釈』 と 『新釈法華三部経』(庭野日敬著)を参考にしています。

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衣裏繋珠の譬え

妙法蓮華経 五百弟子受記品第八 あるところに、貧しい暮らしをしていた人がおりました。ある日、彼は親しい友達の家を訪ねました。その家はとても裕福で、さまざまなご馳走でもてなしてくれました。彼はたらふく食べて、お酒に酔って、友達の家ですっかり眠りこんでしまいました。 ところが、その友達は公用があって外出することになりました。友達は、貧しい暮らしをしている彼のためを思い、値がつけられないほど高価な宝の珠を彼の衣服の裏に縫い付けて出かけました。しかし彼はぐっすりと眠っていたため、そのことに気づきませんでした。 目が覚めた彼は友達の家を立ち去り、他国に行って衣食を得るために苦労して働き、少しの収入があればそれで満足していました。ある日、彼は友達とばったりと再会しました。友達は、彼の相変わらず貧しい暮らしぶりを見て驚き、縫い付けておいた宝の珠のことを彼に話し、取り出して見せてあげました。彼は大喜びし、宝の珠のおかげで、それからは何不自由なく暮らせるようになりました。 解説 「貧しい暮らしをしていた人」は私たち、「親しい友達」は仏さまを表しています。そして、「値がつけられないほど高価な宝の珠」とは、一乗の教えを表しています。仏さまは、現実に苦しむ人々を救おうと、様々な教えを説かれましたが、そのすべての教えは、あらゆる人を仏の境地に導くための教えだったのです。私たちはそれぞれ、様々な違いがあり、別々の道を歩んでいるように見えますが、実は、一人ひとりが同じく仏のいのちを具えており、大きなひとつのいのちとして生かされています。そのことを一乗といいます。 私たちが知らぬ間に宝の珠を持っていたということは、つまり、私たちは気づかないうちに仏になる道を歩んでいたということです。 私たちは永久に変わらない確固たる存在ではなく、縁によって変化しているのですが、目に見えている自分の姿だけを本当の自分だと信じて、欲望に振り回されながら、苦に満ちた生活を送っています。まるでこのお話の貧しい人のように、ある時はおいしい食事とお酒に満足しても、条件が変われば、またすぐにもとの暮らしに戻ってしまい、いつまでも満たされることはありません。 そこで、仏さまは、縁起の教えをお説きになり、私たちが我欲に振り回されず、心安らかでいられるように導いてくださいます。その状態(二乗の涅槃の境地)は、このお話の、衣食のために働いて少しの収入で満足して暮らしている人のようなものです。  偶然に友人と再会した時、友人が彼に宝の珠の存在を教えたということは、仏さまが私たちに、「あなたも仏になれるのですよ」と授記されたことを表しています。 仏さまからいただいた宝の珠は、自分だけの安心の境地ではありません。それは、計り知れないほど価値のある宝、すなわち、一乗の教えです。その教えによって、私たちは、自分の歩んでいる道が、実は仏になる道につながっていたことに気づけたのです。仏になる道とは、周りの人を幸せにしたいと願い、そのために努力する道(菩薩道)です。その生き方が、仏さまのいのちをもって生まれてきた私たちの本来のすがたなのです。宝の珠の存在に気づくだけで、私たちは、今いる場所で、周りを照らすあたたかな灯りとなることでしょう。光り輝くいのちの宝珠は、すでに私たちのこころの中にあるのですから。 (中央学術研究所 監修) ※ 解説は 『法華経の新しい解釈』 と 『新釈法華三部経』(庭野日敬著)を参考にしています。

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化城宝処の譬え

妙法蓮華経 化城諭品第七 人里離れたあるところに、長くて険しい道がありました。たくさんの人が、貴重な宝を求めてこの道を歩んでいます。その一行の中に、一人の指導者がいました。その人は、知識が豊富で智慧にすぐれ、この道の先がどうなっているのかよく知っている人でした。 長い道のりを旅してきた人々は、途中でくたびれてしまい、指導者に言いました。「私たちは疲れてこれ以上前に進めません。来た道を引き返そうと思います。」指導者はかわいそうに思い、道のりの半ばより少し向こうに、方便の力を使って、まぼろしの大きな都城を現しました。 一同は、喜んでそこまで歩き、城の中で休息しました。しばらくして、皆の疲れがすっかり癒えたのを見た指導者は言いました。「さあ、行きましょう。宝のある場所はもうすぐそこです。この城は、皆さんが一休みするために仮に作った城なのです。」元気になった一同は、再び宝に向かって歩きだしました。 解説 「長くて険しい道」とは、苦しみの多い人生を表しています。私たち衆生は、人生の本当の幸福という、「貴重な宝(仏の智慧)」を目指して旅をしています。私たちを導いてくれる指導者とは、仏さまのことです。 思い通りにならない人生を歩む私たちは、幸せを求めて修行しながらも、途中でくたびれてしまいます。人生の苦しみは次々に起こり、絶えることはないからです。修行することに飽きたり、勇気を失ったり、あと戻りしたい気持ちが湧いてきます。 そこで、仏さまは、道のりの半ばより少し先に、まぼろしの都城を現しました。まぼろしの都城とは、二乗(声聞・縁覚)方便であって、私たちの現実の苦しみを取り除くための手段です。私たちの目指している本当の幸せ(宝)とは、実は仏の智慧なのですが、多くの人はそのことに気づいていません。ただ、現実の苦しみから逃れることに必死で、漠然と「幸せになりたい」と願っています。そこで、仏さまはまず、私たちに「縁起の教え」を説きました。「目の前に起こっているものごとは、固定的ではなく、仮の現れにすぎない。縁によって生じているだけである。(つまり様々なものに執着している心を解放すれば、安らかな気持ちになれる)」という教えです。その教えを実践した人々は、まぼろしの城の中で休息したように、自由で安心の気持ちを得ることができました。 しかし、その心境にホッとしているところで、指導者はまぼろしの城を消してしまいます。そして、「もう少し先に、本当の幸せがあるのだよ。」と指し示します。私たち人間の本当の幸せとは、自分だけの安心の境地で休んでいることではなく、周りの人を幸せにする生き方をすることです。自分だけの幸せの境地を捨てて、世の中全体の幸せのために、自分の力を発揮していく菩薩行を積み重ね、仏の智慧を得ること(一乗真実)こそ、本当の幸せへの道です。生きがいのある人生です。 化城を出れば、また新しい苦労が始まります。しかし、それは今までの受け身の苦しみではありません。自らが進んで人さまのためにする努力は、喜びになります。私たちは、このお話のように、みんなと一緒に幸せへの道を歩んでいるのです。そして、仏さまも私たちのおそばで、いつも一緒に歩んでくださっています。 (中央学術研究所 監修) ※解説は、『法華経の新しい解釈』と『新釈法華三部経』(庭野日敬著)を参考にしています。

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三草二木の譬え

妙法蓮華経 薬草諭品第五 とても暑い日のことです。強い日差しで、地面はからからに乾いていました。そこへ、大きな雲が、空いっぱいに広がって、世界中どの場所にも同じように雨が降りだしました。この世界には、さまざまな種類の草木があり、そのすべてに、雨は平等に降り注ぎ、世界中を潤しました。 そこには、大中小の生い茂る木々や薬草などがありました。それぞれの根・茎・枝・葉・花・実などは、等しく恵みの雨を受けて鮮やかに輝いてきました。同じ雲から同じ雨を受けても、草木の種類によって、その受けとり方は様々に違います。たくさんの雨を受ける大きな木もあれば、ほんの少しの雨で十分な草もあります。そして、それぞれが、その性質に応じて生長し、花を咲かせ、実を結びます。 大きな木には、大きな木の役目があり、小さな木には、小さな木の役目があります。小さな木が、大きな木に劣っているのではなく、それぞれが自分の性質に応じて、精一杯に生きています。皆が自分の役割を果たしていくことで、世界全体が生きているのです。 解説 強い日差しを受けて、からからに乾いた世界は、私たちが苦しみや悩みの中で生きていることを表しています。そこに広がる雲は仏さまであり、恵みの雨は仏さまの教えです。私たちは、草木が雨を待ち望むように、心の渇きを潤すものを求めています。大きな雲である仏さまは、私たちの世界をあまねく覆い、平等に教えの雨を降らせてくれています。人々の性格、能力、育った環境などには違いがあり、教えの受けとり方は異なりますが、私たちは皆、それぞれの機根に応じて、自分にふさわしい成長をすることができるのです。 「根」、「茎」、「枝」、「葉」とは、「信」、「戒」、「定」、「慧」にあたります。草木にとって一番大切な根は教えを信じる心、「信」のことです。「信」があるから、仏さまの教えに帰依した者の戒め(「戒」)を守ることができます。「戒」を守ることで、真理に集中し動揺しない心である「定」の境地に至ります。「定」の境地に入ることで、最高の智慧である「慧」を得ることができます。ただし、根があっても、茎や枝葉がなければ、いつかは根も死んでしまいます。信仰とは、「信」から起こり、「戒」、「定」を経て「慧」に達するものですが、この四つは、どれも必要不可欠なのです。 草木の大きさに違いがあるということは、私たちの性格や能力に違いがあることを表しています。しかし、そうした違いがあっても、それぞれが自分のもっている力を精一杯に発揮すれば、すべてが尊い存在なのです。自分より大きな木を見て、卑屈に感じる必要はありません。私たちは同じ地面から生えた草木のようなもので、ひとつのいのちを生きています。仏さまの大慈悲によって生かされているのです。そういう意味では私たちは表面的に違いがありながらも、皆平等であると言えます。 等しく仏さまのいのちを頂いている私たちが、それぞれ違う姿形で生まれ、違った能力があることに意味があるのです。自分がこの世において、どんな役割を持っているのかを知ることが大切です。この役割を精一杯に果たしていくことが菩薩道(花)であり、その道を歩んでいけば、必ずみな仏の境地に達する(実)ことができるのです。 (中央学術研究所 監修) ※解説は、『法華経の新しい解釈』と『新釈法華三部経』(庭野日敬著)を参考にしています。

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長者窮子の譬え

妙法蓮華経 信解品第四 ある裕福な家に生まれた子どもがおりました。その子は幼いときに家から逃げだしたので、長い間、他国で貧しい暮らしをしていました。父の長者は、唯一の子どもを失ってたいへん悲しみ、国中を探しましたが、とうとう見つからず、しかたなくその後、立派な屋敷にたくさんの召使いと共に暮らしていました。息子が五十歳のとき、あちこちを放浪するうちに、ひとりでに自分の故郷に戻ってきました。ある日、そこが父の家とも知らずに、大きな屋敷の前にたたずみました。屋敷の中をのぞくと、驚くほど美しく荘厳で、「こんなところにいては、つかまえられてひどい目にあうかもしれない」と、恐ろしくなり、その場から逃げだしました。 長者は、わが子を忘れたことは一日もありませんでした。屋敷の中から息子を見たとたん、一目で自分の子どもであることがわかったのです。急に走り出した息子を見て驚き、召使いに、その男を連れてくるように伝えました。息子は捕まえられると、恐ろしさのあまり気を失ってしまいました。長者は、息子を無理に連れてくるのは諦め、その後、みすぼらしい姿の二人の召使いを息子のもとに遣わせます。息子は、屋敷の便所掃除の仕事に誘われ、安心して屋敷で働きだしました。長者は、自分も汚い身なりをして一緒に働きながら、息子に近づき、「私はおまえを本当の子どものように思っているよ」と言って、新たな名前をつけてあげました。 それから二十年、汚いところの掃除を続けた息子は、ようやくその家に心安さを感じてきましたが、まだ卑屈な気持ちのままです。その後、長者が病気になり、死期を悟ると、宝の入っている蔵の管理を息子に任せました。息子は、仕事をするうちに、家の財産のすべてに通じてきて、次第におどおどしなくなりました。息子の心を悟った長者は、臨終の間際に、屋敷の中の人をすべて集めて、「実はこの男は本当の息子です。わたしの財産はすべてこの子のものです」と宣言しました。息子は、「こんな財宝を求める気持ちは少しもなかった。ひとりでにすべてが自分のものになった」と、かつて覚えたことのない大きな喜びを感じたのでした。 解説 長者は仏さま、窮子は私たちの姿です。私たちは、仏さまのふところから抜け出して、苦しみの中をさまよい歩いています。しかし、いつしか「ひとりでに」親である仏さまに近づいていくのです。自分で気づかなくとも、私たちにはみな、仏性が具わっているからです。そんな私たちを見たとたん、仏さまはしっかりと、自分の子どもだと気づいてくださいます。いつも私たちのことを想ってくださっているのです。 仏さまは、すぐに私たちを悟りへ導こうとしてくれるのですが、私たち衆生は、「とても自分が近寄れるところではない」と、背を向けてしまいます。そこで仏さまは、私たちが安心するやり方(方便)で、おそばにおいてくださいます。便所掃除の仕事をするということは、自分の煩悩を除く修行を積み重ねた、ということです。 二十年という長い時間、修行を重ねた窮子は、それでもまだ、卑屈な心を抱えています。仏さまに、「自分のこどものようだ、名前をつけてあげよう」とまで言っていただいても、やはり自分と仏さまとの間に一線を引いているのです。修行の末、仏の教えに広く通じるようになり、宝の支配人になるのですが、宝が自分のものだとは思っていません。自分にも宝(=仏性)があることに気づくことができないのです。 教えを行じて、少しずつ自信をつけた私たちに、仏さまは、「仏と衆生は親子です。みんなが仏になれるのです」と教えてくださいます。そうしてようやく、自分は仏と一体であることに気づくことができたのです。 私たちは、すでに『法華経』に出合っています。まわり道をしなくても、すぐに仏さまのふところに飛び込むことができるのです。それにはまず、自分の卑屈な精神をなげうつことです。心をのびのびともち、「自分も仏になれるのだ」「自分はこの宇宙と一体なのだ」と、自分に言ってみましょう。そして、法華経を信じ、行じていくことで、自分に確固たる自信が湧いてきます。苦しみに出合ったときは、窮子と一緒に汚い恰好をして、掃除をしている仏さまを思い出してください。仏さまは、いつも私たちのそばにいてくださっているのですから。 (中央学術研究所 監修)

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三車火宅の譬え

妙法蓮華経 譬喩品第三 あるところに、長者の大きな家がありました。その家には、長者の子どもたちや召使いなど、たくさんの人が住んでいましたが、建物は荒れ果てていました。ある日、突然家が火事になりました。中にいる子どもたちは気づかずに遊んでいます。外にいた長者は、大急ぎで家に戻って大声で注意しますが、遊びに夢中な子どもたちは、その叫び声にも気づきません。 長者は、「こどもたちを何か机のようなものに乗せて外に連れ出そうか」と考えますが、「途中で誰かが落ちてしまってはいけない」と思い直します。火の恐ろしさを説明して状況に気づかせよう、と試みますが、こどもたちは見向きもしません。そこで、長者は最後に、「方便を使って子どもたちを救うしかない」と考えます。子どもたちが好きな羊、鹿、牛の車が外にあることを知らせたのです。 子どもたちは、燃えさかる家から、自らの意志で一つしかない狭い門をくぐって、ようやく出てきました。長者は、子どもたちの無事をたいへん喜びました。こどもたちは、口々に「さっき言っていた羊、鹿、牛の車をください」とせがみます。すると長者は、それよりもっと大きな、もっと素晴らしい大白牛車という車を、みんなに平等にくださったのでした。 解説 このお話の中の、長者は仏さま、子どもたちは私たちの姿です。荒れた家は、私たちの住む世界のあやうさを表しています。そこに火事が起こります。火事とは、人生のあらゆる苦しみのことです。それはいつか突然におそってくるのですが、私たちはそのことを知らずに、自分の欲にとらわれているのです。 仏さまは、私たちを救い出そうと、一心に願われています。逃げ出せる門は狭く、ただ一つしかないのです。そこを抜け出るには、仏さまの願いに私たち自身が気づき、自分の意志で門をくぐるしかないのです。仏さまが、何か机のようなものに乗せて連れ出そうとしても、本人が自らの苦に気づいていなければ、救いの手からこぼれ落ちてしまうかもしれません。そこで、仏さまは、まずは苦しみに気づかせようと力を尽くして伝えますが、私たちは気づかないのです。仏さまの顔を、チラリと見るのですが、心から教えを聞こうとしません。 仏さまは、いよいよ最後の手段として、羊の車や鹿の車、牛の車を私たちに示されます。「自分に合った教えから学んでいけばいいのだよ」と教えられ、私たちは初めて教えに心をひかれるのです。 燃えている家から、自分の意志で走って逃れ出たということは、私たちが自ら修行をした、ということを指します。しかし、まだ自分が救われたことには気づいておらず、自分の望んだ乗り物が欲しいという、現実の願いでいっぱいです。そこで、仏さまに心から願いを伝えたとき、思いがけなく、大白牛車という、最高の悟りを、みなが平等にいただくことができました。自分に合った修行を重ねていけば、だれでも仏の悟りを得ることができるのです。 仏さまは、私たちをかわいいわが子としていつも心配し、苦しみから救おうとしてくださっています。本当に、この世は苦しみに満ちていて、火のついた家のようなものです。仏さまは、そこに自ら飛び込んで、私たちみんなが共に仏になる道を示してくださっているのです。 (中央学術研究所 監修)

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